それは……自分を少し離れたところで見ている感覚。
初めは反射的に体を動かしたのだとイリスは思った。
けれど、今も自分の意思とは関係なく『わたし』は行動している。
どうして?
疑問の言葉も口に出すことはできない。イリスの困惑は加速するばかり。
よくわからない焦りに襲われもがいているうちに、なんとか首を動かすことが出来た。
「何、いまの……?」
今度は声になる。体も思ったように動くようだ。
動く感覚を確かめるようにあちこち体を動かしていたイリスだったが、足先に鋭い痛みが走る。
そのことで、混乱していたイリスの意識がようやく目の前の状況に向けられた。
彼女は痛む足を引きずるようにして時計の下から抜き出した。
傷口は血をにじませ、強く打ち付けた跡は青黒く変色しはじめている。
その足に体重をかけようとするだけで激痛に襲われた。歩くどころか立ち上がることも難しい。
「どうやって戻ろうかしら」
肩で大きく息をつく。
『……困ったものだ』
どこかから、声がした。
その声に疑問を抱く間もなく、もう一度先ほどの感覚が体を支配する。
『わたし』が早口で何かをつぶやいた。
痛みが引き、イリスにとって不自然な視界の中で傷が治っていくのが見えた。
「これでいいだろう。戻るなら戻れ」
イリスの声で、しかし彼女のものではない言葉がつむがれる。
「なんなの……?」
今の声はイリス自身のもの。再び体が彼女自身に戻ってきたようだ。
しかし安堵感はなかった。
誰か。いや、何かがいる。
そしてそれは私を動かすことができる。
『それ』は私の危ないところを助け、傷を癒してくれた……けれど。
相手の姿が見えない、正体がわからないことが不安をかきたてる。
彼女は頼りない明かりの中で身を固くし息を潜め、自分以外の何者かの存在を感じ取ろうと神経を尖らせた。
「誰か、いるの……?」
誰かがいたとしても誰にも聞こえないぐらいの、消え入りそうなささやき。
数分後――彼女にとっては長い時間が過ぎた頃、ようやく『それ』からの反応があった。
『……腕輪だ。お前が今身につけている、腕輪』
先ほど聞いた声が、イリスに自分の正体を告げる。
「うで……わ」
顔を動かさず、彼女は視線だけをそれに向けた。
様々なことが立て続けに起こり、はめていることも忘れていた腕輪は、見つけたときと変わらぬ光をまとっている。
これが、先の現象と声の主だとは思ってもいなかった。
あまりにも非現実的すぎる。妖精のいたずらや何らかの霊現象のほうがまだ信憑性があるだろう。
「本当に……?」
『……嘘ならもっとそれらしいことを言っているが?』
彼女の頭の中に響くその声はやれやれといった調子で言葉を返す。いまにもため息をつきそうだ。
物に意思があるなんて。
「大切にされたものには魂が宿るとはよく言うけれど……」
これとは違う気がする。
実際にこうして会話をしていてもイリスは半信半疑だった。
「あの……さっきのことだけれど。あれはあなたが――」
――私を動かしていたの?
そう言いかけてイリスはためらう。
直接口に出すのは少し怖かった。
勝手に操られたことも、操ったであろうその相手に聞くことも。
「あなたが、助けてくれたの?」
なんとか当たり障りのない言葉を選び、たずねる。
『結果的にお前を助けたことには、なるか……』
肯定の意味合いを含ませたその反応は、イリスが言葉を選んでいなくても同じと思わせるような平坦なものだった。
腕輪は持ち主の感覚を共有するらしい。
『自分』を身につけているイリスの事故に巻き込まれたために対応しただけと腕輪は言う。
それがなければ、もの言わぬまま、ただの装飾品としてその腕にいただろう、とも。
『知らぬ相手にはただの道具でいたほうが面倒がなくて済むからな』
無機質な……本当に『物』と話をしているようなやりとり。
その声の淡々とした様子にイリスの戸惑いや恐れは不思議と薄れていく。
こちらにまったく興味を抱いていない相手に、逆に興味がわいた。
「もう少し……話を聞いても、かまわない?」
思いがけず振ってわいた非日常の手触り。少しだけ心が躍る。
物語でしか味わえないはずの遠い世界の片鱗に触れた気がした。
2008.10.11